1969年にソロ・デビュー。1970年の「僕の歌は君の歌」のヒット以降、コンスタントに活動を続け、現在までに全世界で2億5000万枚以上のアルバム・セールスを記録している、世界で最も成功した男性ソロ・アーティストの一人である。ほぼ作曲専門で、作詞は1968年のデビュー以降その多くを盟友バーニー・トーピンが手がけている。芸名はソロ・デビュー前に参加したバンド、ブルーソロジーのメンバーだったエルトン・ディーン(Elton Dean、キース・ティペット・グループを経てソフト・マシーンに加入)とロング・ジョン・ボルドリー(Long John Baldry)の二人の名前から取ったものである。
1970年代前半に彼の人気は全盛期を迎えた。1972年の『ホンキー・シャトー』以降、アルバムセールスは7枚連続全米首位を記録し、1975年には『キャプテン・ファンタスティック』で全米ビルボードのアルバムチャート史上初の初登場1位を記録するなど、この時期に数多くの快挙を成し遂げている。活動休止期間を経て、トーピンと一時期決別してからは不遇の時代が続いたが、一方で1986年にはディオンヌ・ワーウィックらとのデュエット曲「愛のハーモニー」で初のグラミー賞を受賞している。80年代後半から90年代前半にかけては、喉の病気やアルコール、薬物依存症などに苦しみながらも、音楽活動と並行してチャリティーにも精力的に取り組むようになる。その後は復調し、映画『ライオン・キング』のサントラなど数多くの仕事で成功した。1997年には、旧作の詞の一部を差し替え、事故死したダイアナ妃に捧げたシングル「キャンドル・イン・ザ・ウインド 1997/ユー・ルック・トゥナイト」が全世界で3700万枚以上を売り上げるシングル史上最大のヒット曲となる。この記録は2008年1月現在も破られていない。1998年2月24日には長年の功績を称えられ、ポピュラー音楽の音楽家としては3人目となるナイトに叙勲された。
メロディメーカーとしての手腕は確かなもので、様々なジャンルの音楽を貪欲に吸収し独自のものにしている。初期のプログレッシブ・ロック志向からカントリー・ミュージックへの傾倒、さらにはアメリカン・ロック、フィリー・ソウル、ディスコミュージックに至るまで、その音楽性は幅広い。日本においてはバラード・シンガーとして認知されがちだが、サービス精神旺盛な生粋のロックンローラーであり、確かな技術に裏打ちされたパフォーマンスの評価は高い。過剰なまでの派手な衣装も特徴的であり、着ぐるみを着用していた時期もあった。ピアノの下に隠れての曲弾き、ピアノの上によじ登ってのゴリラドラミングなどのパフォーマンスを行うことも多い。彼の音楽性は、しばしば同様にピアノマンの異名を持つビリー・ジョエルと比較される。彼等は近年頻繁にジョイント・コンサートを行っている。
彼は両性愛者であることで知られる。1984年にドイツ人の女性と結婚したが、4年後に離婚。2005年には男性の恋人と再婚して大きな話題を呼んだ。近年のグラミー賞授賞式では、ゲイを揶揄するリリックを歌ったエミネムとパフォーマンスして物議を醸したが、音楽性が優れているアーティストに対して協力するのは当然と意に介さなかった。
長年自身の容姿に劣等感を持っていたことをインタビューなどで語っている。1970年代の前半ごろから既に頭髪が薄くなりカツラを使用していた。1990年代に植毛手術に成功。21世紀に入っては視力矯正手術にも成功し、長年愛用していた眼鏡もオークションに出した。現在は色付きサングラスの使用が多い。
繊細さと荒々しさを併せ持つ性格で、過激で辛辣な言動などから、常にゴシップでとりあげられる存在である。一方取材に対して饒舌で、舌禍事件を起こすこともしばしばある。自身のコンプレックス、同性愛を笑い話として披露することも多い。交友関係は非常に広く、数多くのミュージシャンのみならずデビッド・ベッカムをはじめとするサッカー選手などとも親交がある。また彼自身、クラブチームを保有していた時期がある。
彼は鉄道にも興味があるらしく、東京へ行く際、関西国際空港へ降り立ち、新大阪から新幹線に乗ったことがある。
CD
DVD
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1970年代前半に彼の人気は全盛期を迎えた。1972年の『ホンキー・シャトー』以降、アルバムセールスは7枚連続全米首位を記録し、1975年には『キャプテン・ファンタスティック』で全米ビルボードのアルバムチャート史上初の初登場1位を記録するなど、この時期に数多くの快挙を成し遂げている。活動休止期間を経て、トーピンと一時期決別してからは不遇の時代が続いたが、一方で1986年にはディオンヌ・ワーウィックらとのデュエット曲「愛のハーモニー」で初のグラミー賞を受賞している。80年代後半から90年代前半にかけては、喉の病気やアルコール、薬物依存症などに苦しみながらも、音楽活動と並行してチャリティーにも精力的に取り組むようになる。その後は復調し、映画『ライオン・キング』のサントラなど数多くの仕事で成功した。1997年には、旧作の詞の一部を差し替え、事故死したダイアナ妃に捧げたシングル「キャンドル・イン・ザ・ウインド 1997/ユー・ルック・トゥナイト」が全世界で3700万枚以上を売り上げるシングル史上最大のヒット曲となる。この記録は2008年1月現在も破られていない。1998年2月24日には長年の功績を称えられ、ポピュラー音楽の音楽家としては3人目となるナイトに叙勲された。
メロディメーカーとしての手腕は確かなもので、様々なジャンルの音楽を貪欲に吸収し独自のものにしている。初期のプログレッシブ・ロック志向からカントリー・ミュージックへの傾倒、さらにはアメリカン・ロック、フィリー・ソウル、ディスコミュージックに至るまで、その音楽性は幅広い。日本においてはバラード・シンガーとして認知されがちだが、サービス精神旺盛な生粋のロックンローラーであり、確かな技術に裏打ちされたパフォーマンスの評価は高い。過剰なまでの派手な衣装も特徴的であり、着ぐるみを着用していた時期もあった。ピアノの下に隠れての曲弾き、ピアノの上によじ登ってのゴリラドラミングなどのパフォーマンスを行うことも多い。彼の音楽性は、しばしば同様にピアノマンの異名を持つビリー・ジョエルと比較される。彼等は近年頻繁にジョイント・コンサートを行っている。
彼は両性愛者であることで知られる。1984年にドイツ人の女性と結婚したが、4年後に離婚。2005年には男性の恋人と再婚して大きな話題を呼んだ。近年のグラミー賞授賞式では、ゲイを揶揄するリリックを歌ったエミネムとパフォーマンスして物議を醸したが、音楽性が優れているアーティストに対して協力するのは当然と意に介さなかった。
長年自身の容姿に劣等感を持っていたことをインタビューなどで語っている。1970年代の前半ごろから既に頭髪が薄くなりカツラを使用していた。1990年代に植毛手術に成功。21世紀に入っては視力矯正手術にも成功し、長年愛用していた眼鏡もオークションに出した。現在は色付きサングラスの使用が多い。
繊細さと荒々しさを併せ持つ性格で、過激で辛辣な言動などから、常にゴシップでとりあげられる存在である。一方取材に対して饒舌で、舌禍事件を起こすこともしばしばある。自身のコンプレックス、同性愛を笑い話として披露することも多い。交友関係は非常に広く、数多くのミュージシャンのみならずデビッド・ベッカムをはじめとするサッカー選手などとも親交がある。また彼自身、クラブチームを保有していた時期がある。
彼は鉄道にも興味があるらしく、東京へ行く際、関西国際空港へ降り立ち、新大阪から新幹線に乗ったことがある。
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